広告批評

広告批評2・3合併号を購入。今回は憲法改正、9条問題を取り上げる政治色が強い。でも、読んでみると高橋氏らのインタビューは本当に納得したり新しく知ることが多くて、自分の中の考えを作るいいきっかけになったと思う。自分版の前文作成なんてみんなやってみると結構面白いだろうし、自分が求める日本に対する理想だったり要望だったりを改めて考えられると思う。
その後に載っていた記事で、いろんな著名人に対して、憲法9条改訂をどう思うか等の質問があったんだけど、こういうところで表現者としての本質みたいなものがちらりと見えたりしてくるんじゃないかと感じた。つまり、アーティストであったり作家である人が今自分が生きている地球や、日本の抱えている問題から目をそらしていたり、自国がどういう国になって欲しいという理想すらないとしたら、その人は表現者として何を表現しているのだろうか。どんな表現でも突き詰めれば、その時代の体制や平和の度合いに立脚しているものなのでは?それに賛成、反対に関わらずとても浅い次元で回答している人を見るとその人の作品自体が薄っぺらに感じてしまう。記事になっていることから考えて、多かれ少なかれギャラが発生している仕事で無関心をさらしている。無関心であるという意思を表明することがかっこいいとでも考えているようだ。そのくせ、教育が問題だと書いてたり。もちろんここに書いてある内容がその人の考えの全てではないだろうが見ていくと改訂に反対している人が多い。自分たちが表現者であるという自覚と、本当に関心を持っているならば世の中に対してしっかりと声を発するべきだと思う。彼らは注目を集める力も持っているんだから。ここまでは求めすぎなのかも。でも、アーティストや作家が自分たちの立場を明確にして、議論をするということには重要な意味を持っていると思うんだけど。自分自身や作品に政治的な色をつけたくないというのは分かるけど、それでいいのか。作家は特に昔からオピニオンリーダを勤めてきたんじゃないのか。
憲法に忠実に、解釈を曲げずという非現実的な発言をしている人もいた。けれど、その意見を明確に発し続けることもアーティストとして正しいあり方だと思う。
この記事を読んでいて、自分と意見が違う人を無意識的に読み飛ばそうとしていた自分を見つけてショックでした。いろんな方向のインプットを受け入れて自身のブラックボックスを通ったアウトプットを持つことが大事。
夜のニュースキャスター、例えば筑紫さんとか古館、海外(欧・米・亜)の政治評論家、キャスター、一般の人(高校生とか)や、北野武荒俣宏爆笑問題太田光山田五郎の意見も聞いてみたかった。
今回の広告批評はすごく良かった。けど、一部のアーティストにはがっかりさせられた。アーティストってもっとセンシティブな人なんだと思ってたのに。